ノート(随筆)

【BJC】ドキドキするようなイカれた人生に今も憧れている(仮)

ブランキー 解散 新聞広告

田中奏延氏のコラム「終わることなどあるのでしょうか」を読んだ。

https://www.tcc.gr.jp/relay_column/id/3854/

田中氏にブルーハーツは僕にとってのブランキージェットシティだと思った。

僕が初めてブランキーに出会ったのは中学3年生の頃。ベストアルバム「国境戦場の蟻」が初めてだった。

今でも鮮明に覚えていて、ありありと覚えている。それは中学の同級生だったT君(サボり常習犯)の家に遊びに行き、靴を脱いで階段をのぼり、ドアを開けて部屋の中に入った瞬間だ。

吸い殻にまみれた灰皿、クシャクシャになったセブンスターのソフトケース、使い捨てられた100円ライターの山、司馬遼太郎や柴田錬三郎の小説、岸裕介の小説、美容学校で使っているマネキン、手荒れを治すためのスキンケアクリーム。アルミラックに組み込まれた20インチのテレビと黒いPanasonicのCDラジカセ、aiwaのウオークマン、そしてたくさんのCDが床や棚に元気に散らばっていた。

その部屋の真ん中で、カバンを肩からかけたまま僕はしばらくずっと動けなかった。ラジカセのスピーカーから流れてくる音の塊と一瞬の静寂、しゃがれたヴォーカルが絞り出すように歌う声。

さみしさだとかやさしさだとか言うけれど そんな言葉に興味はないぜ 揺らしてるだけ 自分の命 揺らしてるだけ

どこまでも孤独で ただひたすらにカッコいい歌詞も衝撃的だった(十数年後、ビートニクの影響があったと知る」

とにかくそんな風に僕はブランキーと出会った。

早速CDを借りて、カセットテープにダビングして聴きまくった。カセットウォークマンがぶっ壊れたのでCDウォークマンを買って、T君に借りた「国境線上の蟻」を買ってひたすら聴いて聴いて聴きまくった。「水色」はブランキーの曲だと思っていた。

地平線が国境の国のバイク乗りになりたかったし、ただ鉄の塊にまたがっていたかったし、アイスキャンディを加えながらただ生きていたかった。

ブランキージェットシティという街の住人の1人になりきっていた。

出会ってから数年で、ブランキーは解散してしまった。

幸運なことに、僕は彼らのライブを4回も見ることができた。そのうちの2回はフジロック。初めてのブランキーはフジロックで、最後のブランキーもフジロックだった。

 

 

 

 

 

 

 

初めてのブランキーと書いたが、初めてのプロのミュージシャンのライブでもあった。

上半身はだかで、背中にはでっかいタトゥーが入り、ロン毛で編み上げの黒いブーツ、軍パンの筋肉ムキムキのカッコ良すぎる怖いお兄さんが、狂喜乱舞しながら前方へダイブを繰り返すそんなライブだった。

あっという間に終わって、曲についてあまり覚えていないけれど、汗だくでもみくちゃにされ、足元が泥だらけになった事は記憶に残っている。

ダイアモンドホールの思い出

朝10時に公衆電話ボックスの中に入り、100円玉を緑の電話機に入れ、左手でチケットぴあの番号を押す。「ツー ツー」という音が聞こえるや否や電話を切り、また硬貨を入れ、「ピポパボペパピポパパ」とボタンを押す。

右手は携帯電話を持ち、リダイアル機能を何度も何度も押す。

最初の15分が勝負。20分かかる様ではかなり厳しい。30分ではアウトだ。

だから、1999年のツアー「コンチネンタル パンク」と、ラストツアー「LOVE IS DIE,DIE IS A CHANGE」のチケットが取れたのは、はっきり言って奇跡だった。

何度も何度も足を運んだ名古屋ダイアモンドホール。建物脇の階段を5階分登るとようやく会場の入り口に着く。奥の方にはコインロッカーがあり、そこにはTシャツに着替えながらタバコを吸う観客たちがたむろっている。

全ては一瞬だった。MCもなにもなくただただひたすら曲を演奏していくブランキーがそこにはいた。

全身全霊で叫び、拳を突き上げ、身体を揺らしていた。

終わった後はなにも残らない。床にはチラシやドリンクのカップや靴やTシャツや片方だけの靴下なんかが散乱していた。

Tシャツは汗で濡れていない箇所はない。頭からは湯気が立ち上り、パンツの中までぐっしょりしている。

ABOUT ME
sunny
サニーのレポートブログ「サニレポ」運営者。調べることが好き。 詳しいプロフィールは → コチラ